2011年06月28日

IMG_0030 画像は、三原城天守台の西側の面の石垣である。

 三原城の天守台石垣は、東面と北面と西面と3面あるが、この西面には、とても重要なキーワードがある。
それは「アブリ積み」である。

 以前から「アブリ積みってなんなんだろう」と思っていた私ではあったが、なかなか回答を得る機会がなかった。
 それが、本日、三原歴史と観光の会の顧問でいらっしゃる福岡さんとお話しする機会があり、その疑問をぶつけてみたところ・・・

「ああ。それなら、いい本がありますから、読んでみたらいいのでは?」
 と、文献を開いて、読ませていただいた。

 それを読むと、これまでの疑問が氷解した!
 びっくり!


 アブリ積みとは、教育委員会によると「余人はまねるべきではない」との表記が、立て看板にある。これをいい意味で取るか、悪い意味で取るかで、アブリ積みの意味は変わってくる。

 私は今まで「余人はまねるべきではない」というのを、いい意味でとっていた。「あまりにも出来がいいので、こんな精密なアブリ積みは、よそにはありませんよ」という意味かな、と思っていた。
 しかし、正確には違うようである。
 アブリ積みという技法は、石垣を積む技術としては邪道であり、基本的にやってはいけないことをしているらしい。
石垣のいけない積み方
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9122/isizumi3/isizumi7.html
 参照のサイトの上から3番目に、その「あぶり」という表現がある。
 本来であれば、面に対して控えが大きくないといけないのに、面に対して控えが少ない積み方を「あぶり」というらしい。

 なのに、三原城の天守台の石垣は「アブリ積み」で、現在まで生きながらえているのである。
 悪い積み方をした巨大な天守台なのに、現存しているのだから「余人はまねるべきではない」のである。

 三原城の石垣は、1707年の大地震(宝永地震)によって、一度被害を受けている。その際、多分ではあるが、天守台の東面は修繕されたのではないだろうか。東面と西面で、石垣の組み方が異なるのは、それに由来しているとしか、思えない。
 当時の石垣を積む技術の中で「アブリ積み」で積んでいた面を、「アブリ積み」で積まなかったということは、その「アブリ積み」が特異な技法であった(あまりお勧めできない技法)であったからなのだろう。
 現在で言う「東南海地震」の一つである宝永地震ののち、その周期で何度か大地震を受けている三原城の天守台であるが、西面の「アブリ積み」に関しては、被害を受けるわけでもなく、現在まで生き残っている。

 これって、とんでもないことなんじゃないかなあ。
 石垣を組む時に「やってはいけないこと」である「アブリ積み」が、数度の大地震を乗り越え、現存しているのだから。

 改めて、三原城の素晴らしさを感じる。
 
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2011年04月12日

ある日突然、私のブログが消えてしまいました。

なんだか、どたばたしていまして、対応が遅れました。


何のことはないのです。
クレジットカードの有効期限が切れてしまっていて、契約が更新されなかったのです。
完全にチェックミスでした・・・。

おまけに、それを知ったのは、オギロパンの公式サイトの掲示板の書き込みがメールで飛んできたからでした(ちなみに、掲示板のレスがつけ遅れていることを、この場をお借りしてお詫び申し上げます。きちんと読んでおります。本当にありがとうございます)。

さて、そんなわけで、本日ブログが復旧いたしました。

読んでいる人がいるような、いないような・・・私のブログですが、今後ともご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げあげます。


ちなみに、現在三原市のお好み焼き店めぐりは30店をすこし超えたところでございます。旧市内をめぐり終えたら、一度データを吐き出したいなあと考えています。

っていうか、パン屋のブログなんだから、パンのことを書けって・・・言う声も・・・あまりないですが・・・。

あはは・・・。



Comments(0) | TrackBack(0) │   (20:41)

 今年に入って、急激にはまってしまっていることがある。
 それは「お好み焼き店めぐり」。
 美味しいのは当然として、お店の作り方や呼称の差が面白いので、すっかり魅了されてしまっている。

 偉そうに言うわけではないが、三原市のお好み焼き店の件数は、ざっと数えて80店強(現在調査中)。電話帳に載っていないお店もあるので、90店ぐらいはあるかもしれない。人口当たりに考えると、約10000人に1店の割合で「お好み焼き店」が存在することになる。
 ちなみに、ラーメン店は・・・25店前後かな?(いいかげん)
 天下のラーメンに比較しても、かなりの多さだと思う。

 広島市のお好み店の数が平成18年で904店。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1115884539238/index.html
 さすがに多いが、広島市の人口が117万人だから、比率的にはいい勝負なのかもしれない。

 さて、そんな三原のお好み焼き店をめぐっていると、いくつかの不思議なことに出会う。前述の通り、各店の作り方や呼称が興味深いのである。

 まずは、以前にも書いたように、そば(うどん)の入ったお好み焼きを「モダン焼き」と呼ぶ店が多いこと。これは、比較的新しい店にも当てはまるようである。皆実の昌や、宮浦のわかばなど、そうでない店もある。が、たいてい「モダン焼き」は通じる。

 次に「モツ」が選べること。鶏のモツであるが、レバーであることが多いような気がする。味はつけていなくて、生を使用する。どこが元祖かはよくわからないけど、駅前のてっちゃんがその一端を担っているような感じ。てっちゃんで勉強したおこのみ焼き店主がある程度いるようである。

 最後に、作り方として、広島のお好み焼きの定石である「重ね焼き」の方法が、若干異なるお店があること。通常ならばほぐすだけ、もしくはソースで下味をつけるだけの「そば」であるが、それをおもいっきり「焼きそば状」に炒めて、広げた生地に乗せるパターンである。これを「三原焼」と呼称する場合もある(お店では呼称していないような気がするが・・・)これは、モダン焼き表記のお店と被るようで、被らない(モダン焼きでも、通常の「重ね焼き」をしているお店もある。たとえば、駅北口のつぼみ、宮浦のたくちゃん、駅前のてっちゃんがそうである)。

 あと、つけくわるのならば、ソースがオタフク・カープ・テングのどれかを使っていることであろうか。以前にも書いたが、テングソースは三原の中間醸造がつくる「地ソース」。こだわるお店は新しいお店でもテングソースを使っている気がする。たとえば、宮浦のじゅっぽや、明神のファンシーフリーがそうかもしれない。

 キャベツの切り方も店により千差万別である。千切りのところから、ざく切りまで。紅ショウガを乗せるか、のせないか。青ネギを入れるか入れないか。細切りのニンジンを入れるか、入れないか。各店による個体差が大きい。

 また、県内で「イカ天」と呼ばれるスナックのイカのてんぷらが、なぜか三原では「のしいか」と呼ばれている場合が多い。本当に「のしいか」が入っているのではなく、「イカ天」が入っているのに「のしいか」と呼ぶのである。

 ついでに、関西風お好み焼きを出す店が駅周辺に集中している。頑固亭、フロンティア、花のれんがそうである。

 確かに、三原というまちは、関西圏と文化的に繋がっている部分があった。

三原市年表
http://www.mhr-cci.or.jp/cci_info/history/chronology.htm

 1933年から帝人がある。昔を知る他地域の人は「三原は帝人のまち」と認識している方も多かったようである。帝人は大阪に本社のある、立派な関西系の会社である。オイルショックまでは飛ぶ鳥を落とす勢いのあった会社で、大阪と三原との間に、人の流れがあったことは予測できる。
 ちなみに、当時、大阪〜三原間に「びんご」「とも」という列車が走っており、新幹線開通まで活躍していたようである。このことからも、三原〜大阪間に、ある程度の人の流れがあったことがうかがい知れる。

 さて、そんななかで、大阪の「モダン焼き」が流入してきたんだが、どうだかはよくわからないけど、大阪の「モダン焼き」もそばを混ぜるタイプと乗せるタイプとある。三原のモダン焼きも「焼きそばをつくる・・・まぜるタイプ?」と「普通の重ね焼き」のように乗せるタイプとある。似ているような、似ていないような。

 父の小さかったころ、昭和30年代初頭には、三原にもお好み焼きがあったらしい。やはり、薄く生地をのばして、キャベツを乗せるものだったという。キャベツを乗せただけのモノを「素焼き」と言っていたらしい。

 では、広島のお好み焼きと、大阪のお好み焼きと、どちらが先に三原に入ってきたか、ということを考えると、どちらかというと、大阪が先なんじゃないかなあ、と思える。
 大阪のお好み焼きは、「お好み焼きとモダン焼き」という並列呼称であり、広島のお好み焼きは単に「お好み焼き」でそばが入る。そして、大阪の「モダン焼き」は昭和初期には存在していたらしい。

 じゃあ、三原でそれがミックスされて、今の三原の呼称につながるんじゃないかなぁ、とも思うのだが(帝人は、戦前から存在するし)、確証はない。

 以上、いろいろと書いてはみたものの、ぜーんぶ「推測」の域を出ることはない。例の「コッペパンとメロンパン」と同じく、文献や記録などに、具体的な記述は残っている可能性は低く、そのような些細なことをはっきりと記憶している人も少ないのであるから。


 ともかく、三原のお好み焼き店はバリエーション豊富で、食べ歩くのにとても楽しい存在であることは間違いない。しかも80店舗以上もあるのだから、簡単には制覇できない。

 ちょっと、時間をかけて、食べ歩きしてみようかな、と考えている今日この頃である。

 
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2010年11月21日

※2025年に書かれたブログ・・・を想定しています。


 思い起こせば、2010年ごろまで、あの場所には「三原駅前市民広場」という広場があった。

 要はペアシティ東館を取り壊して作った、急場しのぎの広場であったのだが、三原市が「市役所を移転するぞ」といったものだから、市民から「それはどうなの?」と声が上がり、広場の活用について市民レベルでの検討会議ができた。

 この三原でそんな検討会議なんて、できるわけがないと思っていたのだが、意外や意外、三原を愛する人がやっぱりいるものである。

 その中で、たくさんいろんな案が浮かんでは消え、消えては浮かびしていった(実は、私もその会議に参加した一人・・・だったりする)。

 確かに、あの場所に市役所を設置するという案は、一番手っ取り早い方法と思われた。なにしろ、市の所有地であり、駅前で交通の便もよく、なにより行政が前向きであった。
 しかし、こんな声もあった。

「三原駅前といえば、三原の玄関先。そこに市役所があっても、何のメリットもない」
「中心市街地という観点から、もっと人の集まるような仕組みがあってもいいのでは?」
「もともと、あの場所は三原城なのだから、それを踏まえて考えたほうがいい」
「三原って、三原らしいこれっていう場所がないよね」
「市役所があってもいいけど、わざわざ建て替えるっていうのも、ね」

 とはいえ、決定打となるものはなかった。

 このまま、市役所の移転で決着しちゃうのかなぁ。市役所の建物に、にぎわい施設や三原城をイメージするデザインを取り込むのかな。とも思われた。

 何度か検討会議がぐるぐると同じような内容で進むうち、とある人が、突然怒りながらこんなことを言い出した。

「だいたい、三原市をイメージするものってなんなんよ!」
「たこ?筆景山?仏通寺?交通の便の良さ?」
「んなもんは、決定打にならん!」
「たこはよそでもうまい。多島美もええけど、よそにもある。古い寺なんか、どこでもある」
「交通の便が良くても、人が行き来せんと、意味がない」

「三原が三原である、ぐっとくるもんは、なんなんじゃ!」

 会議に居合わせた一同は、静まり返った。
 まさしく、正論である。言い返す言葉もない。
 そんな空気の中、一人がこう言いだした。

「あんた。そんなこと言って、三原でぐっとくるもんはなんじゃー思うとるんなら!(怒)」

 逆切れである。
 しかし、そのひとは、ぼそりぼそりと、こう言いだしたのであった。

「よう考えてみんさい。三原の街はどうしてできた?」
「小早川隆景が三原に浮城を築いたから、この地に三原ができたんじゃろ?」
「立派な城が明治になるまで、あったんよ。鉄道が通って、壊されたけど」
「新幹線ができて、余計その城も壊されたんじゃ」
「城が壊されるたびに、三原の魂がなくなっていったんじゃないんか?」
「あの広場だって、もとはといえば、三原城の本丸でー」
「三原の街を作った小早川隆景公は、いまの三原の姿をみて、どう思うかのー」

 一同は息をのんだ。確かにその通りである。
 三原の街をつくった小早川隆景は、今の三原をみて、なにを感じるだろう?

 すくなくとも、ほかの地方都市と変わらず、景気の流れに沿ったように静かになり、街としての意思も意識もなく、なんとなくまちづくりが行われ、、だんだん個性のない三原になっていった状況は、小早川隆景にとって、口惜しいに違いない。

 小早川隆景は、この三原の地に、天下に誇る海城としての名城である「三原城」を築き、三原の民を気遣いながらこの地を治めていた。春の訪れをしらせる「神明さん」で景気を判断していた隆景である。また、三原城の築城をいわって踊られたのが「やっさ踊り」である。三原を代表する2つの祭りに深くかかわっている人物は、小早川隆景なのだ。

「わしら、三原の人間として、大事なことをわすれて、駅前じゃー、一等地じゃー、中心市街地活性化じゃー、いうて、さわいどっただけだけかもしれん」

 静かになった会議室で、ひとりがつぶやいた。

「三原が三原らしいまちになる、いうことは、三原である唯一のことを大切にせんといけんのんじゃないか。」

 会議の流れが、徐々に動き出していった。

「じゃあ、何が大事なんかね・・・」

 ・・・

 この時点で、市役所の移転は消えていたのだった。

(つづく)


 って、このまま妄想をひろげてええんかいな。(汗)
 
Comments(5) | TrackBack(0) │   (18:22)

2010年11月16日

 天満屋の方から電話を受けて、ほいほいと話に乗ったものの、店の位置をしらない・・・。天満屋緑井店は、山陽高速道の広島ICを降りてすぐにある。
 実はあまり広島には高速に乗っていかない私は、その場所がすぐにはわからなかった。よくもまあ、いい加減な状態である。
 そんなわけで、下見に行くことにした。

 三原の本店から約1時間車を走らせると、フジグランと天満屋の看板が見えてくる。大きな電気屋もある。なんとも凝縮された街である。
 現地で担当の方と打ち合わせ(といっても、簡単な確認程度・・・)をして、あとは販売当日に、ということになった。

 販売は3日間。広告が入る売り出しだそうで、担当の方は「結構、売れると思いますよ」とおっしゃる。ただし、こんなことも。

「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」

 ふんふん。そうなんですか。と、素直に受け止める。

 初めてのことなので様子がわからず、とりあえず初日は、夢プラザと同じぐらいの量を持っていくことにした。少なくはない量である。

 ・・・不安で仕方がない。

「余ったら、どうしよ。帰りに高速のパーキングで配るか・・・」

 と、かなり弱気になる。


 そんなこんなで、販売初日。
 さすが百貨店と思ったのは、開店直後は店員さんが作業をせずにお客さんに挨拶をしていたこと。もちろん、私たちも同じようにする。
 食品売り場も、なんだかいつも見ている様子(ジャスコ三原店)と様子が違う。ジャスコより広くはないのだが、品ぞろえがとても面白い。

 そんななかで、うちのパンって、大丈夫なのか・・・、と、やっぱり不安になる。


 しかし、ふたを開けてみれば、極端に多く持ってきていた「しゃりしゃりバターパン」を除くパンは2時過ぎになくなってしまい、すべてのパンがなくなったのも午後6時前だった。完売である。
 いやぁ。いいのかなぁ。ラッキーだなぁ。と、思いつつ。

「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」

 という言葉を素直に信じ、翌日はすこし持ってくる量を減らした。


 2日目は、初日と若干お客さんの流れが違っていたように感じるが、売れ方はあまり変化がない。よく売れる。
 結局、また6時前には完売してしまう。

 こんなことなら、もう少し持ってくればよかった!と、思ったが後の祭りである。だいたい、そんな勇気は持ち合わせていない。初日ですらびくびくしていたのに・・・。


 ちっぽけな勇気を振り絞り、最終日は2日目と同じ量を持ってくる。
 これなら、まさかまた完売なんてことはないだろう・・・、と思っていたが、甘かった。結局5時に完売してしまった。

 結果オーライといえばその通りなのだが。
 売り残すことを考えると、まったくもってラッキーではあるのだが。

 初日の完売はうれしいばっかりだったけど、2日目・3日目の完売は、うれしい中に、悔しさがあった。贅沢は言えないけど、せっかく広島の人にうちのパンを食べてもらえるチャンスを棒に振ったような気がしていた。

 そんなこんなで、ある程度の成果と、ある程度の反省点の残った広島遠征であった。

 ビギナーズラックという言葉もある。
 勢いだけで売っちゃったのかな、と、思うところもある。
 次回があるかどうかはわからないけれども、大変勉強になった広島遠征だった。

 こういった販売は、気持ち的に「お祭り」みたいな感じなので、とても楽しい。やっぱり、うちのパンをたくさんの人に食べていただけるということは、私にとってはとっても幸せなことなのである。

 三原のパン屋としての誇りを持って、おいしいパンを作って、たくさんの笑顔をつくれるお手伝いができたらいいなぁ、と、改めて思ったのであった。


(広島遠征記 おわり)

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2010年11月11日

 おもがけず飛び込んできた「天満屋緑井店」での催事。

「ひろしま夢ぷらざで見かけたんですが、うちで販売してみませんか?」

 と、担当の方から言われる。確かに、ひろしま夢ぷらざでの販売で、そのような感じの人も見受けられた。まさか、それがこのようにつながるとは。恐るべし。

 さて、ひろしま夢ぷらざでは、三原の関係者とそうでない人との反応に、恐ろしいほどの差があった。

 三原の関係者の方は、「オギロパン」という文字を見つけると、つつつっっと寄ってきて、いろんなことをおっしゃる。

「まだ、あったんじゃねぇ」
「なつかしいねぇ」
「これすきじゃったんよ」
「本町の店で買ようたねぇ」
「館町で買ようたよ」
「三原高校の前に、店があったねぇ」

 と、遠い目をしながら、語っていただけるのである。
 これが、なんだか嬉しくって、こちらもニコニコしてしまう。
 
 オギロパンは、昔からやっているだけあって、多くの人にとって、たくさんの思い出になっているんだなぁ。

 でも、こうも少しは思ったりする。

 ・・・いまでも、現役バリバリのパン屋なんですけどね・・・。
 ・・・思い出なのね・・・。
 
 嬉しいやら、がんばらなあかんと思うやら・・・。


 そして、三原関係者以外の人はといえば。

「どこにあるん?三原?三原ってどこ?(ほんまに言われた)」
「なんか、昔からあるようなパンじゃね(これは事実である)」
「甘そうじゃね。(カロリーが気になるようである)」
「給食で出とったようなパンじゃね(しゃりしゃりバターのことである)」

 と、初対面から散々な言われよう。(笑)
 あまりにも、上段からバッサリと斬って捨てられたようで、案外ダメージは少ない。そんなもんだよなぁ、と思った次第である。

 
 以上のことからわかるように(といっても、ほとんどの人がそう思っているだろうけど)、三原ではオギロパンは絶大な知名度を誇っているようだが、広島ではまったくもって無名である。
 時には「ああ。三原のパン屋って言えば、おたくクリームパンつくっているでしょ?」と、違うパン屋さんと完全に勘違いするような方もいらっしゃった。

 あはは。そうだよね。あちらさんは全国区だもん。(笑)

 とはいえ、きっちりと自らの立ち位置を認識したうえで、天満屋緑井店では、なんとか一矢報いたいと思ったのであった。


(つづく)


 
 

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2010年11月09日

 ひろしま夢ぷらざには、結局4種類持っていった。

・しゃりしゃりバターパン
・コッペパン
・ネジリパン
・カリントドーナツ

 三原を7時に出発し、現地に9時に到着。
 それからセッティングをして、すぐに販売開始だった。

 以前からの疑問である「コッペパン」であるが、これがすんなり売れてゆく。

「これって、メロンパンじゃないの?」

 と、聞かれることも少なく、なんとなく仮説に立てている

「コッペパン=メロンパン呼称 戦前広島中心説」が頭をよぎる。


 コッペとカリントドーナツは順調に売れたものの、大量に持ってきた「しゃりしゃりバターパン」が・・・。
 広島の人にとっては、べつに変わったパンに見受けられないのだろう。

「なんか、なつかしい感じがするよね」
「給食で出てきたパンよね。これって。」
「甘そうじゃね」
「昔見たことあるね。」

 と、あまり肯定的な意見はなく、かなりアウェーな感じ・・・。


 そこで、試食販売を決意する。食べてもらえば、わかるはずだ。
 早速、近所の100均ショップにて、試食グッズをとりそろえ(当初は試食は考えていなかった)、試食販売を開始する。


 すると・・・。

 食べてもらえると、味に納得していただけるのだ。
 これは素晴らしい反応!
 試食をだす声に、自信が満ち溢れる!

 結局、4時から200個近くの「しゃりしゃりバターパン」を販売し、なんとか閉店までに完売。

 本当にほっとした。
 そして、うちのパンが「三原の昔ながら、だけではない」と思える結果を出すことができた・・・と、思った。

 気分が高揚し帰路に就いたのだが、翌日に1本の電話がかかってきた・・・。


「天満屋緑井店の催事で、販売してもらえませんか?」


 その一言に、耳を疑ったのであった・・・。


(つづく)


・・・このシリーズ。書いてて、あまり面白くないなぁ。(汗)
Comments(3) | TrackBack(0) │   (19:51)

自己紹介
四代目(よんだいめ)
老舗パン屋の四代目として、三原に生まれ育ち、跡を継ぐ。 2010年に代表取締役社長就任。
社長になっても、なんだかんだいいながらイオン三原店の店長も兼務。
三原がふるさと。大阪がボケと突っ込みのふるさと。フランスが心のふるさと。
日本と広島と故郷の三原と我が妻と娘をこよなく愛する40歳。

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オギロパン イオン三原店
郵便番号 723-0014
広島県三原市城町2-13-1
TEL&FAX 0848-62-8800
営業時間 午前9時〜午後8時
定休日 年中無休(お店は)
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