2006年03月
2006年03月29日
昨年末、私個人の管理するサイト(って、ここもそうですが)を閉鎖した為、「コッペパンはメロンパン」のテキストがネット上において消失しています。
もちろん、私自身は所持しているのですが、多少の変更を加えないと(表組とか、画像とか・・・)、ここには掲載できないので、そのまま放置しています。
そのうち、復活させる心づもりではいるのですが、いかんせん、やる気が・・・。気分が乗らないとやらない、ケツに火がつかないとやらない性格なもので・・・。
私の言うところの「コッペパン・メロンパン呼称問題」については、なにひとつ進展のないままです。なにしろ、足で情報をかせぐのは、大変です。
今やらなければ、情報はどんどん少なくなるような気もしますが、もうすでに情報は少なくなってしまっているので、困ってしまいます。
先日、ひとつの仮説をたててみました。
マクワウリ形(ラグビーボール形)のメロンパンの形状から、神戸のメロンパンが、いかにしてこちらまで伝わったかを、思索していたおりに、ふと思い付いた事です。あくまで想像です。
1)「コッペパン(給食のパン)」は、戦前からある。
2)どうやら、戦中はコッペパン(給食のパン)は、「味付けパン」と呼ばれていたらしい。
3)戦中は、配給制にあり、砂糖などの材料は手に入らず、菓子パンはつくれなかった。
4)終戦後、しばらくして材料がそろうようになり、神戸において「メロンパン(マクワウリ形)」が作られるようになった。
5)うちの祖父は、神戸にイーストを買いに行っていたらしい・・・。
6)そこで、「メロンパン(マクワウリ形)」を見て、食べたのではないか?
7)もちろん、同時にほかのパン屋も神戸で「メロンパン(マクワウリ形)」を食べたであろう。
8)神戸を中心に、同心円状に、「メロンパン(マクワウリ形)」が伝播した。
9)各地で、「メロンパン(マクワウリ形)」が、つくられるようになる。
10)オギロパンでも、メロンパンをメロンパンとして作る。
11)せっかくクッキーの上生地をつくったのに、メロンパンだけに使うのは、もったいない。
12)味付けパンに、クッキーをのせてみようと思う。
13)意外と旨いので、売る事にする。でも、名前に困る。
14)しかも、「メロンパン(マクワウリ形)」は、もう呼称として存在している。
15)味付けパンにクッキーの上生地をのせたパン・・・。
16)そういえば、味付けパンは、戦前、コッペパンと呼ばれていた。
17)では、「クッキーコッペパン(仮称)」などと、呼称してみようか。
18)いや、語呂がわるい。というより、呼びにくい。
19)当然の事ながら、短縮されて、「コッペパン(現、オギロのコッペ)」となる。
20)従来のコッペパン(給食のパン)は、戦中に「味付けパン」と呼称するようになったのだから、名前もかぶらず、問題ない。
21)現に、いまでも、オギロパンではコッペパン(給食のパン)を「味付けパン」と呼称している。
22)そして、コッペパン・メロンパン・味付けパンの呼称が成立する。
23)現在に至る。
とか、勝手に想像したりして。
残念ながら、証明できる人すら、いない・・・。
もちろん、私自身は所持しているのですが、多少の変更を加えないと(表組とか、画像とか・・・)、ここには掲載できないので、そのまま放置しています。
そのうち、復活させる心づもりではいるのですが、いかんせん、やる気が・・・。気分が乗らないとやらない、ケツに火がつかないとやらない性格なもので・・・。
私の言うところの「コッペパン・メロンパン呼称問題」については、なにひとつ進展のないままです。なにしろ、足で情報をかせぐのは、大変です。
今やらなければ、情報はどんどん少なくなるような気もしますが、もうすでに情報は少なくなってしまっているので、困ってしまいます。
先日、ひとつの仮説をたててみました。
マクワウリ形(ラグビーボール形)のメロンパンの形状から、神戸のメロンパンが、いかにしてこちらまで伝わったかを、思索していたおりに、ふと思い付いた事です。あくまで想像です。
1)「コッペパン(給食のパン)」は、戦前からある。
2)どうやら、戦中はコッペパン(給食のパン)は、「味付けパン」と呼ばれていたらしい。
3)戦中は、配給制にあり、砂糖などの材料は手に入らず、菓子パンはつくれなかった。
4)終戦後、しばらくして材料がそろうようになり、神戸において「メロンパン(マクワウリ形)」が作られるようになった。
5)うちの祖父は、神戸にイーストを買いに行っていたらしい・・・。
6)そこで、「メロンパン(マクワウリ形)」を見て、食べたのではないか?
7)もちろん、同時にほかのパン屋も神戸で「メロンパン(マクワウリ形)」を食べたであろう。
8)神戸を中心に、同心円状に、「メロンパン(マクワウリ形)」が伝播した。
9)各地で、「メロンパン(マクワウリ形)」が、つくられるようになる。
10)オギロパンでも、メロンパンをメロンパンとして作る。
11)せっかくクッキーの上生地をつくったのに、メロンパンだけに使うのは、もったいない。
12)味付けパンに、クッキーをのせてみようと思う。
13)意外と旨いので、売る事にする。でも、名前に困る。
14)しかも、「メロンパン(マクワウリ形)」は、もう呼称として存在している。
15)味付けパンにクッキーの上生地をのせたパン・・・。
16)そういえば、味付けパンは、戦前、コッペパンと呼ばれていた。
17)では、「クッキーコッペパン(仮称)」などと、呼称してみようか。
18)いや、語呂がわるい。というより、呼びにくい。
19)当然の事ながら、短縮されて、「コッペパン(現、オギロのコッペ)」となる。
20)従来のコッペパン(給食のパン)は、戦中に「味付けパン」と呼称するようになったのだから、名前もかぶらず、問題ない。
21)現に、いまでも、オギロパンではコッペパン(給食のパン)を「味付けパン」と呼称している。
22)そして、コッペパン・メロンパン・味付けパンの呼称が成立する。
23)現在に至る。
とか、勝手に想像したりして。
残念ながら、証明できる人すら、いない・・・。
2006年03月26日
私は、33歳であるが、修行時代の4年間以外は、これまでずっと、オギロパンのお客様によって、生かされていると思っている。私の頭のてっぺんから足の先まで、オギロパンを食べていただいたお客様によって、成り立っている。そう思っている。
そして、それは曽祖父の代からそうであったのだから、私の宿命といってもいいと思う。
そう思うからこそ、わが仕事を天職だと思うのだし、三原の人においしいパンを食べてもらおうと、がんばってこれたのだと思う。
なにかお店で起こったとき、その責任の所在はどこにあるのか。
それは、すべて私にある。
その責任を果たせなかったときには、やはり、自らの力の不足を思うし、未熟さを思うし、再び「私の宿命」を果たそう努力しようと思う。
今日は、その責任を果たせなかったことに対して、自責の念でいっぱい。
いいわけはしない。
でも、この気持ちを残して、次につなげておきたい。
それが、私の責任であるし、宿命。
私の宿命とは、三原の人においしいパンを食べていただいて、笑顔を生み出すお手伝いをすること。
そして、それは、言葉で伝えるものではない。
そして、それは曽祖父の代からそうであったのだから、私の宿命といってもいいと思う。
そう思うからこそ、わが仕事を天職だと思うのだし、三原の人においしいパンを食べてもらおうと、がんばってこれたのだと思う。
なにかお店で起こったとき、その責任の所在はどこにあるのか。
それは、すべて私にある。
その責任を果たせなかったときには、やはり、自らの力の不足を思うし、未熟さを思うし、再び「私の宿命」を果たそう努力しようと思う。
今日は、その責任を果たせなかったことに対して、自責の念でいっぱい。
いいわけはしない。
でも、この気持ちを残して、次につなげておきたい。
それが、私の責任であるし、宿命。
私の宿命とは、三原の人においしいパンを食べていただいて、笑顔を生み出すお手伝いをすること。
そして、それは、言葉で伝えるものではない。
2006年03月17日
話に聞くところでは(とかいって、読売新聞に掲載されているらしいけど)、三原城址の水が抜かれてしまっているとのこと。
へぇー。あの水がねぇ。
確かに、緑色ににごって、なんだ出てきそうだったよなぁ・・・。
こんなチャンスはそうそうないので、さっそく見に行ってみることにした。
まずは、三原駅北口横の道路から。
見ての通り、水が少ない。どうやって抜いたんだろう。
水を抜いて、清掃した、というように聞いていたのが、確かに、水が抜けているし、大きな廃棄物も見当たらない。
右下あたりには、コイとかがじたばたと集まっていた。サギが、それを狙っていたりして、漁にはもってこいなのかもしれない。
意外と堀の深さは浅いようで(もっと深いと思っていた・・・)、こちらから見ると、大人一人の背のたけぐらいだろうか。でも、水があるときに入る勇気はない。
底面は、ヘドロというか、足を入れたら抜けそうにないような感じ。
沼田川の干潮時の、川底に、なんとなく似ているような。
次は、隆景広場から。こっちから見るほうが、水が減っていることが、よくわかる。
これだけ少ない状態を見るのは、私は初めてだ。
三原城址のお堀は、もともと海の一部だったわけで、三原駅ができたとき、海から分断されたと聞いている。古い写真が残っているので、それを見ると、一目瞭然。
>市役所のサイト内の「みはら情景(第1回)」
小さいころ、このお堀が、どこからも水が入っていないし、どこにも抜けていないことが、とても不思議だった。
あるとき、熊本城にいったとき、お堀に水が入っていなくて、それが「空堀」であるということを知った。
それを知ると、余計に三原城址のお堀の水の存在が、不思議だった。なんで「空堀」じゃないのだろうか、と。
そもそも、海だったんだから、出入り口をふさがれてしまえば、それは沼である。
このお堀の水は、よどんでしまうようにできている(なってしまった・・・かな)のだし、それに対する対策を行っているわけではない。
うそでもいいから、海とつながっていたらなぁ。
それこそ、瀬戸内に浮かぶ、「浮城」と呼ばれていたんだから・・・。
・・・費用がかかって仕方ないけど。
へぇー。あの水がねぇ。
確かに、緑色ににごって、なんだ出てきそうだったよなぁ・・・。
こんなチャンスはそうそうないので、さっそく見に行ってみることにした。
まずは、三原駅北口横の道路から。
見ての通り、水が少ない。どうやって抜いたんだろう。
水を抜いて、清掃した、というように聞いていたのが、確かに、水が抜けているし、大きな廃棄物も見当たらない。
右下あたりには、コイとかがじたばたと集まっていた。サギが、それを狙っていたりして、漁にはもってこいなのかもしれない。
意外と堀の深さは浅いようで(もっと深いと思っていた・・・)、こちらから見ると、大人一人の背のたけぐらいだろうか。でも、水があるときに入る勇気はない。
底面は、ヘドロというか、足を入れたら抜けそうにないような感じ。
沼田川の干潮時の、川底に、なんとなく似ているような。
次は、隆景広場から。こっちから見るほうが、水が減っていることが、よくわかる。
これだけ少ない状態を見るのは、私は初めてだ。
三原城址のお堀は、もともと海の一部だったわけで、三原駅ができたとき、海から分断されたと聞いている。古い写真が残っているので、それを見ると、一目瞭然。
>市役所のサイト内の「みはら情景(第1回)」
小さいころ、このお堀が、どこからも水が入っていないし、どこにも抜けていないことが、とても不思議だった。
あるとき、熊本城にいったとき、お堀に水が入っていなくて、それが「空堀」であるということを知った。
それを知ると、余計に三原城址のお堀の水の存在が、不思議だった。なんで「空堀」じゃないのだろうか、と。
そもそも、海だったんだから、出入り口をふさがれてしまえば、それは沼である。
このお堀の水は、よどんでしまうようにできている(なってしまった・・・かな)のだし、それに対する対策を行っているわけではない。
うそでもいいから、海とつながっていたらなぁ。
それこそ、瀬戸内に浮かぶ、「浮城」と呼ばれていたんだから・・・。
・・・費用がかかって仕方ないけど。
2006年03月15日
北海道旅行土産に、キャラメルを頂いた。
ジンギスカンキャラメルだそうで、「ジンギスカン風味」らしい。
私は羊がとても苦手で、何時挑んで撃沈されたことか。ケバブやクスクスなど、香辛料が利いていないと、食する事は、今の所、不可能である。
どうも、草食動物の持つ酵素がダメなのではないか、と、思いなおし、乳飲み子羊も試したが、あえなく撃沈。連敗街道まっしぐらである。
羊料理である「ジンギスカン」を、かなりの勇気を振り絞って、唇を噛み締めて、「ジ、ジンギスカン・・・を・・・お願いします・・・・」などと、冷や汗を流しながら食べるなど、我ながら想像もつかない。
ラムならまだしも、マトンだったら、なおさらである。
手元にあれば、「見なかった事にしておこう・・・」と、ないないしてしまうだろう。
さしあたり、克服出来ていない食べ物の筆頭とも言える。
羊は羊なりの魅力があるはずなのだから、いつかは、「うまいっ」と言ってみたいし、思ってみたい。ひとつの夢である。
さて、そんなこんなで、ジンギスカンキャラメル。
よくもまぁ、いくら北海道名物とはいえ、キャラメルとの融合を試みたものだと、感心してしまう。発想は単純かもしれないが、なかなかできる事ではない。
さすがに、なんだかんだ言ってみてもキャラメルなのだから、いくらなんでも「羊味」については、大丈夫だろうと、勇気を振り絞るまでもなく、一粒口にほうりこんでみた。
口にいれて最初の頃、口の中に普通のキャラメルの味が広がった。
「いけるんじゃないか・・・、これ。」
と、思った瞬間、あの風味が口の中にはじけとんだ。あの、羊の風味だ。
「うっ。ウギャー!!」
ごめんなさい、と、思いながら、出させて頂きました。どこからとは、言えませんが。
口の中に広がったままの、羊の風味は、濃いコーヒーを飲み、なんとか消えたものの、あまりにも迂闊だったし軽率だった自らの行動を、反省するばかり。
あいてがジンギスカンキャラメルだ、と、いっているのだから、ジンギスカンの風味、いや、羊の風味がしてなんぼ、である。見くびっていた。
おそるべし、ジンギスカンキャラメル。
ただし。
羊の風味は感じたものの、ジンギスカン自体を食べた事がないので、本当に「ジンギスカン風味」なのかについては、まったくわからない。
いつかはクラウン、じゃないけれども、いつかは羊。そして、いつかはジンギスカン。
旨いと思う日が、来るのかもしれない。
ジンギスカンキャラメルだそうで、「ジンギスカン風味」らしい。
私は羊がとても苦手で、何時挑んで撃沈されたことか。ケバブやクスクスなど、香辛料が利いていないと、食する事は、今の所、不可能である。
どうも、草食動物の持つ酵素がダメなのではないか、と、思いなおし、乳飲み子羊も試したが、あえなく撃沈。連敗街道まっしぐらである。
羊料理である「ジンギスカン」を、かなりの勇気を振り絞って、唇を噛み締めて、「ジ、ジンギスカン・・・を・・・お願いします・・・・」などと、冷や汗を流しながら食べるなど、我ながら想像もつかない。
ラムならまだしも、マトンだったら、なおさらである。
手元にあれば、「見なかった事にしておこう・・・」と、ないないしてしまうだろう。
さしあたり、克服出来ていない食べ物の筆頭とも言える。
羊は羊なりの魅力があるはずなのだから、いつかは、「うまいっ」と言ってみたいし、思ってみたい。ひとつの夢である。
さて、そんなこんなで、ジンギスカンキャラメル。
よくもまぁ、いくら北海道名物とはいえ、キャラメルとの融合を試みたものだと、感心してしまう。発想は単純かもしれないが、なかなかできる事ではない。
さすがに、なんだかんだ言ってみてもキャラメルなのだから、いくらなんでも「羊味」については、大丈夫だろうと、勇気を振り絞るまでもなく、一粒口にほうりこんでみた。
口にいれて最初の頃、口の中に普通のキャラメルの味が広がった。
「いけるんじゃないか・・・、これ。」
と、思った瞬間、あの風味が口の中にはじけとんだ。あの、羊の風味だ。
「うっ。ウギャー!!」
ごめんなさい、と、思いながら、出させて頂きました。どこからとは、言えませんが。
口の中に広がったままの、羊の風味は、濃いコーヒーを飲み、なんとか消えたものの、あまりにも迂闊だったし軽率だった自らの行動を、反省するばかり。
あいてがジンギスカンキャラメルだ、と、いっているのだから、ジンギスカンの風味、いや、羊の風味がしてなんぼ、である。見くびっていた。
おそるべし、ジンギスカンキャラメル。
ただし。
羊の風味は感じたものの、ジンギスカン自体を食べた事がないので、本当に「ジンギスカン風味」なのかについては、まったくわからない。
いつかはクラウン、じゃないけれども、いつかは羊。そして、いつかはジンギスカン。
旨いと思う日が、来るのかもしれない。
2006年03月09日
とても久しぶりに、駅前の天満屋さんの中に入った。
かれこれ、6年ぶり。しかも、営業中になると、15年ぶりぐらい・・・。高校生のころに、服を買いに行ったぐらいの経験しかない。
デパートは、「品物がよくて、価格もそれなりにする」場所だと思う。
ある程度の経済力がなければ、縁がない。もしくは、贈答とか、特別なものを買うときとか。
とにかく、私自身の経済レベルが、デパートに追いついていないから、天満屋さんにお世話になれなかったわけで。
そんな天満屋さんも、あと4日で、閉店する。
自由に使える時間は、今日しかなかったので、最後の別れに行ってきた。
天満屋さんに入って、なにに驚いたか。それは、人の多さ・・・。閉店セールだからか、活気がある。そうか。三原でも、平日でも、これだけ求心力のあるセールを行えば、人が集まるんだなぁ。
閉店セールなのだから、もう、今後、天満屋さんで買い物できない。
最後なのだから、思い出を保存したい。
最後なのだから、お値打ち商品があるかもしれない。
いつもどおりに、天満屋さんに買い物に来た。
人が集まっているらしいから、来てみた。
動機として、これぐらいあれば、求心力は大きい。
閉店前の状態の感想として思ったのは、「さすがに25年は時が経つのが速いなぁ。」ということ。店舗的に、天井は低く、照明も暗い。デパートにしては、床面積が狭いので、陳列が詰まっていて、すこし息苦しい。全体的に、圧迫感があって、長時間ぶらぶらするのが、ちょっとつらい。
でも、これが、25年前の「普通」だった。いや、普通以上だった。
その環境を、いままで維持していたのだから、周りの商業施設との店舗デザインの差は、大きく広がる。絶対的に良い店舗デザインはなく、常に相対的なものだから、変化に追いつけないと、「古く」なる。
いっそのこと、このままあと25年営業してしまえば、かえって、この古さに価値が出てくるのだから、面白いものだと思う。
・・・12日に閉店しますが。
ペアシティは、東館と西館の2棟の建築物がセットになっている。そのうち、東館の主軸が天満屋さんだったので、天満屋さんの撤退は、かなりの衝撃だった。
なにはともあれ、駅前の大規模商業施設なのだから。
しかも、そごうやダイエーの撤退と、同じように考えるものではない。
これから10年ぐらい、三原をとりまく環境は、激変するが、その一端がこの天満屋撤退であったように感じる。
こういうときにこそ、対処療法的対応でなく、根本療法的対応が、大切になってくる。即効性はなくとも、必ず効いてくる。
しかし、根本療法的手法は、即効性がないため、最初は理解されにくいかもしれない。もしかすると、最初っから否定されるかもしれない。
それでも、突き進むためには、強力なリーダーシップを取れる指導者が必要になってくる。
と、考えると、三原で根本療法的手法は、いまのところ、ありえないのかもしれない。
では、対処療法でしのぐことになるのかな。
私は、根本療法的手法が、最後は生き残れると思う。街も、店も、人も。
そうそう。
天満屋さんの屋上に、「デパートの遊園地」みたいなものがあったのだが、もう、閉鎖されていて、屋上にすら上がることができなかった。
だれかに頼み込んで、屋上に入れてもらおうかなぁ、とも、思ったりしたけど、思い出は思い出のまま、そっとしておいたほうが、美しいよなぁ、とも思ったので、あきらめることにした。
あの、ローラーコースターを、もう一度、見てみたかった。
そして、屋上から見える三原の街を、目に焼き付けておきたかった。
やはり、なんだかんだ言ってみても、「あるものがなくなる」のは、寂しい事だと思う。
かれこれ、6年ぶり。しかも、営業中になると、15年ぶりぐらい・・・。高校生のころに、服を買いに行ったぐらいの経験しかない。
デパートは、「品物がよくて、価格もそれなりにする」場所だと思う。
ある程度の経済力がなければ、縁がない。もしくは、贈答とか、特別なものを買うときとか。
とにかく、私自身の経済レベルが、デパートに追いついていないから、天満屋さんにお世話になれなかったわけで。
そんな天満屋さんも、あと4日で、閉店する。
自由に使える時間は、今日しかなかったので、最後の別れに行ってきた。
天満屋さんに入って、なにに驚いたか。それは、人の多さ・・・。閉店セールだからか、活気がある。そうか。三原でも、平日でも、これだけ求心力のあるセールを行えば、人が集まるんだなぁ。
閉店セールなのだから、もう、今後、天満屋さんで買い物できない。
最後なのだから、思い出を保存したい。
最後なのだから、お値打ち商品があるかもしれない。
いつもどおりに、天満屋さんに買い物に来た。
人が集まっているらしいから、来てみた。
動機として、これぐらいあれば、求心力は大きい。
閉店前の状態の感想として思ったのは、「さすがに25年は時が経つのが速いなぁ。」ということ。店舗的に、天井は低く、照明も暗い。デパートにしては、床面積が狭いので、陳列が詰まっていて、すこし息苦しい。全体的に、圧迫感があって、長時間ぶらぶらするのが、ちょっとつらい。
でも、これが、25年前の「普通」だった。いや、普通以上だった。
その環境を、いままで維持していたのだから、周りの商業施設との店舗デザインの差は、大きく広がる。絶対的に良い店舗デザインはなく、常に相対的なものだから、変化に追いつけないと、「古く」なる。
いっそのこと、このままあと25年営業してしまえば、かえって、この古さに価値が出てくるのだから、面白いものだと思う。
・・・12日に閉店しますが。
ペアシティは、東館と西館の2棟の建築物がセットになっている。そのうち、東館の主軸が天満屋さんだったので、天満屋さんの撤退は、かなりの衝撃だった。
なにはともあれ、駅前の大規模商業施設なのだから。
しかも、そごうやダイエーの撤退と、同じように考えるものではない。
これから10年ぐらい、三原をとりまく環境は、激変するが、その一端がこの天満屋撤退であったように感じる。
こういうときにこそ、対処療法的対応でなく、根本療法的対応が、大切になってくる。即効性はなくとも、必ず効いてくる。
しかし、根本療法的手法は、即効性がないため、最初は理解されにくいかもしれない。もしかすると、最初っから否定されるかもしれない。
それでも、突き進むためには、強力なリーダーシップを取れる指導者が必要になってくる。
と、考えると、三原で根本療法的手法は、いまのところ、ありえないのかもしれない。
では、対処療法でしのぐことになるのかな。
私は、根本療法的手法が、最後は生き残れると思う。街も、店も、人も。
そうそう。
天満屋さんの屋上に、「デパートの遊園地」みたいなものがあったのだが、もう、閉鎖されていて、屋上にすら上がることができなかった。
だれかに頼み込んで、屋上に入れてもらおうかなぁ、とも、思ったりしたけど、思い出は思い出のまま、そっとしておいたほうが、美しいよなぁ、とも思ったので、あきらめることにした。
あの、ローラーコースターを、もう一度、見てみたかった。
そして、屋上から見える三原の街を、目に焼き付けておきたかった。
やはり、なんだかんだ言ってみても、「あるものがなくなる」のは、寂しい事だと思う。
2006年03月08日
とある掲示板で、イチゴの話が出ていた。
イチゴに関しては、思うところがある。というより、果実。というより、食品。というより、世の中?
イチゴは、酸味と甘みのバランスだと思うけど、最近よく店頭で販売されているイチゴは、どう考えても「生食したとき」に、一粒で味が完成してしまうようにできているような気がして(いや、作っているような気がして、かな?)、仕方がない。
それはそれで、よいのだけど。
イチゴの突出した酸味というのは、単体ではすっぱいだけかもしれないけど、熱を加えたり、ほかの食品と組み合わせたとき、そのイチゴのすっぱさが必要な事例があるのではないだろうか。
リンゴについても、同じことを思う。
リンゴは熱を加えたとき、味が崩れる品種と、そうでない品種がある。もう、こうなったら、「生食用」と「加熱用」に分類したほうが良いのかもしれない。
役割の細分化ともいえるだろうけれども、その食品の本来の姿は、もっと不変な実態で、熱を加えたり、ほかの食品と組み組み合わせたぐらいでは、その食品の持つ方向性は、変化しないものであってほしい・・・ような気がする。
別に、細分化を否定するわけではないけど、本質は、そうであってほしい、というだけで。
ものって、本当は不完全なものが、本質で、いろんな資質を補い合いながら、世界が完成しているんじゃないかなぁ、と、思う。
料理とかって、テーブルの上で、その世界を「ちっちゃく完成」させている、小宇宙のような感じがする。
小宇宙なので、大宇宙が、外側には存在する。
宇宙があって、その中にたくさんの銀河系があって、そのたくさんの銀河系の中に、太陽系があって、その太陽系の中に、地球があって、その地球の中に、いろんな国があって、そのいろんな国の中に、いろんな食べ物があって・・・。
そんな感じで、最小構成単位は、そのもの(というより、分子レベルまでいってしまうのかな・・・)自体の本質で、そこから枝葉のように、特性が分かれているような・・・。
うーん。
面倒くさい話になってしまった。
とにかく、今のイチゴは、生食用に傾きすぎていて、イチゴとしては完成されているかもしれないけど、もうひとまわり大きな世界では、中途半端な存在になっているのでは、と、思ったわけで。
いいんすよ。誰にも納得されなくても。イチゴ1個の事で、考え広げて、遊んでいるだけですから。
そのとき「旨い」と思うことが、一番よいのです。
そのとき「旨くない」と思ったら、変えたら良いわけで・・・。
イチゴに関しては、思うところがある。というより、果実。というより、食品。というより、世の中?
イチゴは、酸味と甘みのバランスだと思うけど、最近よく店頭で販売されているイチゴは、どう考えても「生食したとき」に、一粒で味が完成してしまうようにできているような気がして(いや、作っているような気がして、かな?)、仕方がない。
それはそれで、よいのだけど。
イチゴの突出した酸味というのは、単体ではすっぱいだけかもしれないけど、熱を加えたり、ほかの食品と組み合わせたとき、そのイチゴのすっぱさが必要な事例があるのではないだろうか。
リンゴについても、同じことを思う。
リンゴは熱を加えたとき、味が崩れる品種と、そうでない品種がある。もう、こうなったら、「生食用」と「加熱用」に分類したほうが良いのかもしれない。
役割の細分化ともいえるだろうけれども、その食品の本来の姿は、もっと不変な実態で、熱を加えたり、ほかの食品と組み組み合わせたぐらいでは、その食品の持つ方向性は、変化しないものであってほしい・・・ような気がする。
別に、細分化を否定するわけではないけど、本質は、そうであってほしい、というだけで。
ものって、本当は不完全なものが、本質で、いろんな資質を補い合いながら、世界が完成しているんじゃないかなぁ、と、思う。
料理とかって、テーブルの上で、その世界を「ちっちゃく完成」させている、小宇宙のような感じがする。
小宇宙なので、大宇宙が、外側には存在する。
宇宙があって、その中にたくさんの銀河系があって、そのたくさんの銀河系の中に、太陽系があって、その太陽系の中に、地球があって、その地球の中に、いろんな国があって、そのいろんな国の中に、いろんな食べ物があって・・・。
そんな感じで、最小構成単位は、そのもの(というより、分子レベルまでいってしまうのかな・・・)自体の本質で、そこから枝葉のように、特性が分かれているような・・・。
うーん。
面倒くさい話になってしまった。
とにかく、今のイチゴは、生食用に傾きすぎていて、イチゴとしては完成されているかもしれないけど、もうひとまわり大きな世界では、中途半端な存在になっているのでは、と、思ったわけで。
いいんすよ。誰にも納得されなくても。イチゴ1個の事で、考え広げて、遊んでいるだけですから。
そのとき「旨い」と思うことが、一番よいのです。
そのとき「旨くない」と思ったら、変えたら良いわけで・・・。