2007年08月
2007年08月25日
2007年08月12日
やっさ祭り二日目だった。ちなみに、明日の三日目は花火大会である。このまま行けば、まず晴天に恵まれ、大空に大輪が花咲くことであろう。
さて、今日はひとつしんみりとする瞬間があった。
それは、一人の老人のやっさ踊りだった。
飛び込み参加であろうと思われる、ひとりのお年寄りの踊っていたやっさ踊りが、私の目に妙に焼き付いてしまった。その踊りは、とても身体の力が抜けていて、自由自在に曲に身体を合わせ(いや、あたかも身体に曲を合わせてしまったかのようにも思わせる)、楽しそうなあのやっさ踊りを。まるで、そこに「踊りの神」が舞い降りたかのような。
私自身がやっさ踊り大賞を進呈できるのなら、あの名も知らぬ一人のお年寄りにさしあげたい。
踊りとは、踊り手が楽しんでいることが、最重要事項。
だが、踊り手が楽しんでいるだけでもダメだし、観る者が心踊り、一緒に踊りたくなるようなやっさ踊りは、案外少数である。
どのチームにもはいっていなかった、心からやっさ踊りを楽しんでいる、一人の老人のやっさ踊りを踊っていた姿は、本当に心に染みた。あれは、やっさ踊りの本当の本来の姿なのだろう。そう、確信するような踊りだった。
もちろん、チームで出場している人のなかにも、すばらしい踊りをする方がいらっしゃることは事実である。
私は、あえて「飛び込み」で参加されたというところに、すばらしさを感じているのだ。
集団の練習をつんだマスゲームのようなやっさ踊りも見応えがあって結構だが、やっさ踊りとは、見せ物なのだろうか?
踊るものも観るものも、心から楽しいやっさ踊りとは、案外単純なものではない気がする。もっと、基礎的な部分で、深い「身体が勝手に動くようななにか」がある気がする。それは、踊りが「なにげない」喜びを示す一つのことばであるかのように、身体全体で、喜びを表現することではないだろうか。
そして、その「喜び」とは、あくまで物質的な目的や、人からの評価という目的の為ではなく、自らの精神的な喜びを達成するための、高い技術能力をもってして成り立つ、ひとつの目的ではなかろうか。
そんな三原に長らく伝わるやっさ踊りを受け継いでいく心意気を、少しでも持ちたいと思う。
さて、今日はひとつしんみりとする瞬間があった。
それは、一人の老人のやっさ踊りだった。
飛び込み参加であろうと思われる、ひとりのお年寄りの踊っていたやっさ踊りが、私の目に妙に焼き付いてしまった。その踊りは、とても身体の力が抜けていて、自由自在に曲に身体を合わせ(いや、あたかも身体に曲を合わせてしまったかのようにも思わせる)、楽しそうなあのやっさ踊りを。まるで、そこに「踊りの神」が舞い降りたかのような。
私自身がやっさ踊り大賞を進呈できるのなら、あの名も知らぬ一人のお年寄りにさしあげたい。
踊りとは、踊り手が楽しんでいることが、最重要事項。
だが、踊り手が楽しんでいるだけでもダメだし、観る者が心踊り、一緒に踊りたくなるようなやっさ踊りは、案外少数である。
どのチームにもはいっていなかった、心からやっさ踊りを楽しんでいる、一人の老人のやっさ踊りを踊っていた姿は、本当に心に染みた。あれは、やっさ踊りの本当の本来の姿なのだろう。そう、確信するような踊りだった。
もちろん、チームで出場している人のなかにも、すばらしい踊りをする方がいらっしゃることは事実である。
私は、あえて「飛び込み」で参加されたというところに、すばらしさを感じているのだ。
集団の練習をつんだマスゲームのようなやっさ踊りも見応えがあって結構だが、やっさ踊りとは、見せ物なのだろうか?
踊るものも観るものも、心から楽しいやっさ踊りとは、案外単純なものではない気がする。もっと、基礎的な部分で、深い「身体が勝手に動くようななにか」がある気がする。それは、踊りが「なにげない」喜びを示す一つのことばであるかのように、身体全体で、喜びを表現することではないだろうか。
そして、その「喜び」とは、あくまで物質的な目的や、人からの評価という目的の為ではなく、自らの精神的な喜びを達成するための、高い技術能力をもってして成り立つ、ひとつの目的ではなかろうか。
そんな三原に長らく伝わるやっさ踊りを受け継いでいく心意気を、少しでも持ちたいと思う。
2007年08月08日
やっさ祭期間中の3日間、ジャスコさんは駐車場を開放するそうです。ありがたい話です。
取り急ぎ、お知らせまで。
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