2010年11月
2010年11月21日
※2025年に書かれたブログ・・・を想定しています。
思い起こせば、2010年ごろまで、あの場所には「三原駅前市民広場」という広場があった。
要はペアシティ東館を取り壊して作った、急場しのぎの広場であったのだが、三原市が「市役所を移転するぞ」といったものだから、市民から「それはどうなの?」と声が上がり、広場の活用について市民レベルでの検討会議ができた。
この三原でそんな検討会議なんて、できるわけがないと思っていたのだが、意外や意外、三原を愛する人がやっぱりいるものである。
その中で、たくさんいろんな案が浮かんでは消え、消えては浮かびしていった(実は、私もその会議に参加した一人・・・だったりする)。
確かに、あの場所に市役所を設置するという案は、一番手っ取り早い方法と思われた。なにしろ、市の所有地であり、駅前で交通の便もよく、なにより行政が前向きであった。
しかし、こんな声もあった。
「三原駅前といえば、三原の玄関先。そこに市役所があっても、何のメリットもない」
「中心市街地という観点から、もっと人の集まるような仕組みがあってもいいのでは?」
「もともと、あの場所は三原城なのだから、それを踏まえて考えたほうがいい」
「三原って、三原らしいこれっていう場所がないよね」
「市役所があってもいいけど、わざわざ建て替えるっていうのも、ね」
とはいえ、決定打となるものはなかった。
このまま、市役所の移転で決着しちゃうのかなぁ。市役所の建物に、にぎわい施設や三原城をイメージするデザインを取り込むのかな。とも思われた。
何度か検討会議がぐるぐると同じような内容で進むうち、とある人が、突然怒りながらこんなことを言い出した。
「だいたい、三原市をイメージするものってなんなんよ!」
「たこ?筆景山?仏通寺?交通の便の良さ?」
「んなもんは、決定打にならん!」
「たこはよそでもうまい。多島美もええけど、よそにもある。古い寺なんか、どこでもある」
「交通の便が良くても、人が行き来せんと、意味がない」
「三原が三原である、ぐっとくるもんは、なんなんじゃ!」
会議に居合わせた一同は、静まり返った。
まさしく、正論である。言い返す言葉もない。
そんな空気の中、一人がこう言いだした。
「あんた。そんなこと言って、三原でぐっとくるもんはなんじゃー思うとるんなら!(怒)」
逆切れである。
しかし、そのひとは、ぼそりぼそりと、こう言いだしたのであった。
「よう考えてみんさい。三原の街はどうしてできた?」
「小早川隆景が三原に浮城を築いたから、この地に三原ができたんじゃろ?」
「立派な城が明治になるまで、あったんよ。鉄道が通って、壊されたけど」
「新幹線ができて、余計その城も壊されたんじゃ」
「城が壊されるたびに、三原の魂がなくなっていったんじゃないんか?」
「あの広場だって、もとはといえば、三原城の本丸でー」
「三原の街を作った小早川隆景公は、いまの三原の姿をみて、どう思うかのー」
一同は息をのんだ。確かにその通りである。
三原の街をつくった小早川隆景は、今の三原をみて、なにを感じるだろう?
すくなくとも、ほかの地方都市と変わらず、景気の流れに沿ったように静かになり、街としての意思も意識もなく、なんとなくまちづくりが行われ、、だんだん個性のない三原になっていった状況は、小早川隆景にとって、口惜しいに違いない。
小早川隆景は、この三原の地に、天下に誇る海城としての名城である「三原城」を築き、三原の民を気遣いながらこの地を治めていた。春の訪れをしらせる「神明さん」で景気を判断していた隆景である。また、三原城の築城をいわって踊られたのが「やっさ踊り」である。三原を代表する2つの祭りに深くかかわっている人物は、小早川隆景なのだ。
「わしら、三原の人間として、大事なことをわすれて、駅前じゃー、一等地じゃー、中心市街地活性化じゃー、いうて、さわいどっただけだけかもしれん」
静かになった会議室で、ひとりがつぶやいた。
「三原が三原らしいまちになる、いうことは、三原である唯一のことを大切にせんといけんのんじゃないか。」
会議の流れが、徐々に動き出していった。
「じゃあ、何が大事なんかね・・・」
・・・
この時点で、市役所の移転は消えていたのだった。
(つづく)
って、このまま妄想をひろげてええんかいな。(汗)
思い起こせば、2010年ごろまで、あの場所には「三原駅前市民広場」という広場があった。
要はペアシティ東館を取り壊して作った、急場しのぎの広場であったのだが、三原市が「市役所を移転するぞ」といったものだから、市民から「それはどうなの?」と声が上がり、広場の活用について市民レベルでの検討会議ができた。
この三原でそんな検討会議なんて、できるわけがないと思っていたのだが、意外や意外、三原を愛する人がやっぱりいるものである。
その中で、たくさんいろんな案が浮かんでは消え、消えては浮かびしていった(実は、私もその会議に参加した一人・・・だったりする)。
確かに、あの場所に市役所を設置するという案は、一番手っ取り早い方法と思われた。なにしろ、市の所有地であり、駅前で交通の便もよく、なにより行政が前向きであった。
しかし、こんな声もあった。
「三原駅前といえば、三原の玄関先。そこに市役所があっても、何のメリットもない」
「中心市街地という観点から、もっと人の集まるような仕組みがあってもいいのでは?」
「もともと、あの場所は三原城なのだから、それを踏まえて考えたほうがいい」
「三原って、三原らしいこれっていう場所がないよね」
「市役所があってもいいけど、わざわざ建て替えるっていうのも、ね」
とはいえ、決定打となるものはなかった。
このまま、市役所の移転で決着しちゃうのかなぁ。市役所の建物に、にぎわい施設や三原城をイメージするデザインを取り込むのかな。とも思われた。
何度か検討会議がぐるぐると同じような内容で進むうち、とある人が、突然怒りながらこんなことを言い出した。
「だいたい、三原市をイメージするものってなんなんよ!」
「たこ?筆景山?仏通寺?交通の便の良さ?」
「んなもんは、決定打にならん!」
「たこはよそでもうまい。多島美もええけど、よそにもある。古い寺なんか、どこでもある」
「交通の便が良くても、人が行き来せんと、意味がない」
「三原が三原である、ぐっとくるもんは、なんなんじゃ!」
会議に居合わせた一同は、静まり返った。
まさしく、正論である。言い返す言葉もない。
そんな空気の中、一人がこう言いだした。
「あんた。そんなこと言って、三原でぐっとくるもんはなんじゃー思うとるんなら!(怒)」
逆切れである。
しかし、そのひとは、ぼそりぼそりと、こう言いだしたのであった。
「よう考えてみんさい。三原の街はどうしてできた?」
「小早川隆景が三原に浮城を築いたから、この地に三原ができたんじゃろ?」
「立派な城が明治になるまで、あったんよ。鉄道が通って、壊されたけど」
「新幹線ができて、余計その城も壊されたんじゃ」
「城が壊されるたびに、三原の魂がなくなっていったんじゃないんか?」
「あの広場だって、もとはといえば、三原城の本丸でー」
「三原の街を作った小早川隆景公は、いまの三原の姿をみて、どう思うかのー」
一同は息をのんだ。確かにその通りである。
三原の街をつくった小早川隆景は、今の三原をみて、なにを感じるだろう?
すくなくとも、ほかの地方都市と変わらず、景気の流れに沿ったように静かになり、街としての意思も意識もなく、なんとなくまちづくりが行われ、、だんだん個性のない三原になっていった状況は、小早川隆景にとって、口惜しいに違いない。
小早川隆景は、この三原の地に、天下に誇る海城としての名城である「三原城」を築き、三原の民を気遣いながらこの地を治めていた。春の訪れをしらせる「神明さん」で景気を判断していた隆景である。また、三原城の築城をいわって踊られたのが「やっさ踊り」である。三原を代表する2つの祭りに深くかかわっている人物は、小早川隆景なのだ。
「わしら、三原の人間として、大事なことをわすれて、駅前じゃー、一等地じゃー、中心市街地活性化じゃー、いうて、さわいどっただけだけかもしれん」
静かになった会議室で、ひとりがつぶやいた。
「三原が三原らしいまちになる、いうことは、三原である唯一のことを大切にせんといけんのんじゃないか。」
会議の流れが、徐々に動き出していった。
「じゃあ、何が大事なんかね・・・」
・・・
この時点で、市役所の移転は消えていたのだった。
(つづく)
って、このまま妄想をひろげてええんかいな。(汗)
2010年11月16日
天満屋の方から電話を受けて、ほいほいと話に乗ったものの、店の位置をしらない・・・。天満屋緑井店は、山陽高速道の広島ICを降りてすぐにある。
実はあまり広島には高速に乗っていかない私は、その場所がすぐにはわからなかった。よくもまあ、いい加減な状態である。
そんなわけで、下見に行くことにした。
三原の本店から約1時間車を走らせると、フジグランと天満屋の看板が見えてくる。大きな電気屋もある。なんとも凝縮された街である。
現地で担当の方と打ち合わせ(といっても、簡単な確認程度・・・)をして、あとは販売当日に、ということになった。
販売は3日間。広告が入る売り出しだそうで、担当の方は「結構、売れると思いますよ」とおっしゃる。ただし、こんなことも。
「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」
ふんふん。そうなんですか。と、素直に受け止める。
初めてのことなので様子がわからず、とりあえず初日は、夢プラザと同じぐらいの量を持っていくことにした。少なくはない量である。
・・・不安で仕方がない。
「余ったら、どうしよ。帰りに高速のパーキングで配るか・・・」
と、かなり弱気になる。
そんなこんなで、販売初日。
さすが百貨店と思ったのは、開店直後は店員さんが作業をせずにお客さんに挨拶をしていたこと。もちろん、私たちも同じようにする。
食品売り場も、なんだかいつも見ている様子(ジャスコ三原店)と様子が違う。ジャスコより広くはないのだが、品ぞろえがとても面白い。
そんななかで、うちのパンって、大丈夫なのか・・・、と、やっぱり不安になる。
しかし、ふたを開けてみれば、極端に多く持ってきていた「しゃりしゃりバターパン」を除くパンは2時過ぎになくなってしまい、すべてのパンがなくなったのも午後6時前だった。完売である。
いやぁ。いいのかなぁ。ラッキーだなぁ。と、思いつつ。
「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」
という言葉を素直に信じ、翌日はすこし持ってくる量を減らした。
2日目は、初日と若干お客さんの流れが違っていたように感じるが、売れ方はあまり変化がない。よく売れる。
結局、また6時前には完売してしまう。
こんなことなら、もう少し持ってくればよかった!と、思ったが後の祭りである。だいたい、そんな勇気は持ち合わせていない。初日ですらびくびくしていたのに・・・。
ちっぽけな勇気を振り絞り、最終日は2日目と同じ量を持ってくる。
これなら、まさかまた完売なんてことはないだろう・・・、と思っていたが、甘かった。結局5時に完売してしまった。
結果オーライといえばその通りなのだが。
売り残すことを考えると、まったくもってラッキーではあるのだが。
初日の完売はうれしいばっかりだったけど、2日目・3日目の完売は、うれしい中に、悔しさがあった。贅沢は言えないけど、せっかく広島の人にうちのパンを食べてもらえるチャンスを棒に振ったような気がしていた。
そんなこんなで、ある程度の成果と、ある程度の反省点の残った広島遠征であった。
ビギナーズラックという言葉もある。
勢いだけで売っちゃったのかな、と、思うところもある。
次回があるかどうかはわからないけれども、大変勉強になった広島遠征だった。
こういった販売は、気持ち的に「お祭り」みたいな感じなので、とても楽しい。やっぱり、うちのパンをたくさんの人に食べていただけるということは、私にとってはとっても幸せなことなのである。
三原のパン屋としての誇りを持って、おいしいパンを作って、たくさんの笑顔をつくれるお手伝いができたらいいなぁ、と、改めて思ったのであった。
(広島遠征記 おわり)
実はあまり広島には高速に乗っていかない私は、その場所がすぐにはわからなかった。よくもまあ、いい加減な状態である。
そんなわけで、下見に行くことにした。
三原の本店から約1時間車を走らせると、フジグランと天満屋の看板が見えてくる。大きな電気屋もある。なんとも凝縮された街である。
現地で担当の方と打ち合わせ(といっても、簡単な確認程度・・・)をして、あとは販売当日に、ということになった。
販売は3日間。広告が入る売り出しだそうで、担当の方は「結構、売れると思いますよ」とおっしゃる。ただし、こんなことも。
「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」
ふんふん。そうなんですか。と、素直に受け止める。
初めてのことなので様子がわからず、とりあえず初日は、夢プラザと同じぐらいの量を持っていくことにした。少なくはない量である。
・・・不安で仕方がない。
「余ったら、どうしよ。帰りに高速のパーキングで配るか・・・」
と、かなり弱気になる。
そんなこんなで、販売初日。
さすが百貨店と思ったのは、開店直後は店員さんが作業をせずにお客さんに挨拶をしていたこと。もちろん、私たちも同じようにする。
食品売り場も、なんだかいつも見ている様子(ジャスコ三原店)と様子が違う。ジャスコより広くはないのだが、品ぞろえがとても面白い。
そんななかで、うちのパンって、大丈夫なのか・・・、と、やっぱり不安になる。
しかし、ふたを開けてみれば、極端に多く持ってきていた「しゃりしゃりバターパン」を除くパンは2時過ぎになくなってしまい、すべてのパンがなくなったのも午後6時前だった。完売である。
いやぁ。いいのかなぁ。ラッキーだなぁ。と、思いつつ。
「初日は売れますけど、あとは徐々に落ちますから」
という言葉を素直に信じ、翌日はすこし持ってくる量を減らした。
2日目は、初日と若干お客さんの流れが違っていたように感じるが、売れ方はあまり変化がない。よく売れる。
結局、また6時前には完売してしまう。
こんなことなら、もう少し持ってくればよかった!と、思ったが後の祭りである。だいたい、そんな勇気は持ち合わせていない。初日ですらびくびくしていたのに・・・。
ちっぽけな勇気を振り絞り、最終日は2日目と同じ量を持ってくる。
これなら、まさかまた完売なんてことはないだろう・・・、と思っていたが、甘かった。結局5時に完売してしまった。
結果オーライといえばその通りなのだが。
売り残すことを考えると、まったくもってラッキーではあるのだが。
初日の完売はうれしいばっかりだったけど、2日目・3日目の完売は、うれしい中に、悔しさがあった。贅沢は言えないけど、せっかく広島の人にうちのパンを食べてもらえるチャンスを棒に振ったような気がしていた。
そんなこんなで、ある程度の成果と、ある程度の反省点の残った広島遠征であった。
ビギナーズラックという言葉もある。
勢いだけで売っちゃったのかな、と、思うところもある。
次回があるかどうかはわからないけれども、大変勉強になった広島遠征だった。
こういった販売は、気持ち的に「お祭り」みたいな感じなので、とても楽しい。やっぱり、うちのパンをたくさんの人に食べていただけるということは、私にとってはとっても幸せなことなのである。
三原のパン屋としての誇りを持って、おいしいパンを作って、たくさんの笑顔をつくれるお手伝いができたらいいなぁ、と、改めて思ったのであった。
(広島遠征記 おわり)
2010年11月11日
おもがけず飛び込んできた「天満屋緑井店」での催事。
「ひろしま夢ぷらざで見かけたんですが、うちで販売してみませんか?」
と、担当の方から言われる。確かに、ひろしま夢ぷらざでの販売で、そのような感じの人も見受けられた。まさか、それがこのようにつながるとは。恐るべし。
さて、ひろしま夢ぷらざでは、三原の関係者とそうでない人との反応に、恐ろしいほどの差があった。
三原の関係者の方は、「オギロパン」という文字を見つけると、つつつっっと寄ってきて、いろんなことをおっしゃる。
「まだ、あったんじゃねぇ」
「なつかしいねぇ」
「これすきじゃったんよ」
「本町の店で買ようたねぇ」
「館町で買ようたよ」
「三原高校の前に、店があったねぇ」
と、遠い目をしながら、語っていただけるのである。
これが、なんだか嬉しくって、こちらもニコニコしてしまう。
オギロパンは、昔からやっているだけあって、多くの人にとって、たくさんの思い出になっているんだなぁ。
でも、こうも少しは思ったりする。
・・・いまでも、現役バリバリのパン屋なんですけどね・・・。
・・・思い出なのね・・・。
嬉しいやら、がんばらなあかんと思うやら・・・。
そして、三原関係者以外の人はといえば。
「どこにあるん?三原?三原ってどこ?(ほんまに言われた)」
「なんか、昔からあるようなパンじゃね(これは事実である)」
「甘そうじゃね。(カロリーが気になるようである)」
「給食で出とったようなパンじゃね(しゃりしゃりバターのことである)」
と、初対面から散々な言われよう。(笑)
あまりにも、上段からバッサリと斬って捨てられたようで、案外ダメージは少ない。そんなもんだよなぁ、と思った次第である。
以上のことからわかるように(といっても、ほとんどの人がそう思っているだろうけど)、三原ではオギロパンは絶大な知名度を誇っているようだが、広島ではまったくもって無名である。
時には「ああ。三原のパン屋って言えば、おたくクリームパンつくっているでしょ?」と、違うパン屋さんと完全に勘違いするような方もいらっしゃった。
あはは。そうだよね。あちらさんは全国区だもん。(笑)
とはいえ、きっちりと自らの立ち位置を認識したうえで、天満屋緑井店では、なんとか一矢報いたいと思ったのであった。
(つづく)
「ひろしま夢ぷらざで見かけたんですが、うちで販売してみませんか?」
と、担当の方から言われる。確かに、ひろしま夢ぷらざでの販売で、そのような感じの人も見受けられた。まさか、それがこのようにつながるとは。恐るべし。
さて、ひろしま夢ぷらざでは、三原の関係者とそうでない人との反応に、恐ろしいほどの差があった。
三原の関係者の方は、「オギロパン」という文字を見つけると、つつつっっと寄ってきて、いろんなことをおっしゃる。
「まだ、あったんじゃねぇ」
「なつかしいねぇ」
「これすきじゃったんよ」
「本町の店で買ようたねぇ」
「館町で買ようたよ」
「三原高校の前に、店があったねぇ」
と、遠い目をしながら、語っていただけるのである。
これが、なんだか嬉しくって、こちらもニコニコしてしまう。
オギロパンは、昔からやっているだけあって、多くの人にとって、たくさんの思い出になっているんだなぁ。
でも、こうも少しは思ったりする。
・・・いまでも、現役バリバリのパン屋なんですけどね・・・。
・・・思い出なのね・・・。
嬉しいやら、がんばらなあかんと思うやら・・・。
そして、三原関係者以外の人はといえば。
「どこにあるん?三原?三原ってどこ?(ほんまに言われた)」
「なんか、昔からあるようなパンじゃね(これは事実である)」
「甘そうじゃね。(カロリーが気になるようである)」
「給食で出とったようなパンじゃね(しゃりしゃりバターのことである)」
と、初対面から散々な言われよう。(笑)
あまりにも、上段からバッサリと斬って捨てられたようで、案外ダメージは少ない。そんなもんだよなぁ、と思った次第である。
以上のことからわかるように(といっても、ほとんどの人がそう思っているだろうけど)、三原ではオギロパンは絶大な知名度を誇っているようだが、広島ではまったくもって無名である。
時には「ああ。三原のパン屋って言えば、おたくクリームパンつくっているでしょ?」と、違うパン屋さんと完全に勘違いするような方もいらっしゃった。
あはは。そうだよね。あちらさんは全国区だもん。(笑)
とはいえ、きっちりと自らの立ち位置を認識したうえで、天満屋緑井店では、なんとか一矢報いたいと思ったのであった。
(つづく)
2010年11月09日
ひろしま夢ぷらざには、結局4種類持っていった。
・しゃりしゃりバターパン
・コッペパン
・ネジリパン
・カリントドーナツ
三原を7時に出発し、現地に9時に到着。
それからセッティングをして、すぐに販売開始だった。
以前からの疑問である「コッペパン」であるが、これがすんなり売れてゆく。
「これって、メロンパンじゃないの?」
と、聞かれることも少なく、なんとなく仮説に立てている
「コッペパン=メロンパン呼称 戦前広島中心説」が頭をよぎる。
コッペとカリントドーナツは順調に売れたものの、大量に持ってきた「しゃりしゃりバターパン」が・・・。
広島の人にとっては、べつに変わったパンに見受けられないのだろう。
「なんか、なつかしい感じがするよね」
「給食で出てきたパンよね。これって。」
「甘そうじゃね」
「昔見たことあるね。」
と、あまり肯定的な意見はなく、かなりアウェーな感じ・・・。
そこで、試食販売を決意する。食べてもらえば、わかるはずだ。
早速、近所の100均ショップにて、試食グッズをとりそろえ(当初は試食は考えていなかった)、試食販売を開始する。
すると・・・。
食べてもらえると、味に納得していただけるのだ。
これは素晴らしい反応!
試食をだす声に、自信が満ち溢れる!
結局、4時から200個近くの「しゃりしゃりバターパン」を販売し、なんとか閉店までに完売。
本当にほっとした。
そして、うちのパンが「三原の昔ながら、だけではない」と思える結果を出すことができた・・・と、思った。
気分が高揚し帰路に就いたのだが、翌日に1本の電話がかかってきた・・・。
「天満屋緑井店の催事で、販売してもらえませんか?」
その一言に、耳を疑ったのであった・・・。
(つづく)
・・・このシリーズ。書いてて、あまり面白くないなぁ。(汗)
・しゃりしゃりバターパン
・コッペパン
・ネジリパン
・カリントドーナツ
三原を7時に出発し、現地に9時に到着。
それからセッティングをして、すぐに販売開始だった。
以前からの疑問である「コッペパン」であるが、これがすんなり売れてゆく。
「これって、メロンパンじゃないの?」
と、聞かれることも少なく、なんとなく仮説に立てている
「コッペパン=メロンパン呼称 戦前広島中心説」が頭をよぎる。
コッペとカリントドーナツは順調に売れたものの、大量に持ってきた「しゃりしゃりバターパン」が・・・。
広島の人にとっては、べつに変わったパンに見受けられないのだろう。
「なんか、なつかしい感じがするよね」
「給食で出てきたパンよね。これって。」
「甘そうじゃね」
「昔見たことあるね。」
と、あまり肯定的な意見はなく、かなりアウェーな感じ・・・。
そこで、試食販売を決意する。食べてもらえば、わかるはずだ。
早速、近所の100均ショップにて、試食グッズをとりそろえ(当初は試食は考えていなかった)、試食販売を開始する。
すると・・・。
食べてもらえると、味に納得していただけるのだ。
これは素晴らしい反応!
試食をだす声に、自信が満ち溢れる!
結局、4時から200個近くの「しゃりしゃりバターパン」を販売し、なんとか閉店までに完売。
本当にほっとした。
そして、うちのパンが「三原の昔ながら、だけではない」と思える結果を出すことができた・・・と、思った。
気分が高揚し帰路に就いたのだが、翌日に1本の電話がかかってきた・・・。
「天満屋緑井店の催事で、販売してもらえませんか?」
その一言に、耳を疑ったのであった・・・。
(つづく)
・・・このシリーズ。書いてて、あまり面白くないなぁ。(汗)
2010年11月08日
オギロパンとして、広島市に販売に行くなんて、昨年の自分では考えられないことをしたような気がする。
9月28日に、広島の本通りにある「ひろしま夢ぷらざ」での販売を行なった。
これには、私の一つの意図があった。
「うちのパンって、よそでも売れるのかなぁ?美味しいって思ってもらえるのかなぁ?」
素朴な疑問である。
自分自身のパン(ジャスコ店で作っているパン)に関しては、相対的ではなく客観的に判断できるが、オギロパン(昔からあるパン)に関しては、あまりよく判断できない。私自身が、オギロパンで育っているため、この味がある意味当たり前で、それゆえ、客観的に判断する材料に恵まれていない。
たぶん、この悩みは、私自身の悩みなので、ほかの人から見るとおかしいのかもしれない。
ともかく、オギロパンでどこまで勝負できるか、知りたかったというのが、一番の動機になったのは確かである。
だからといって、いきなり出店するほど、私には勇気はない。
そこで気がついたのが「ひろしま夢ぷらざ」の存在だった。
広島の中心地である本通りに店を構えているうえに、三原商工会議所が年に1回、三原の物産をひっさげて遠征していることは知っていたので、それに便乗できないものかと考えた。リスクはかなり低くなるし、ある程度、私の疑問に対する答えにもなる。
まずは、その「ひろしま夢ぷらざ」に行ってみた。たしか、冬と春とか変わるぐらいの時期だった。
さすがに広島の本通り。平日というのに、人通りがかなり多い。
担当の方とも話をしてみると、
「だったら、三原の物産展の時に、一緒に来たらいい」
と、いうことだった。
三原に帰って商工会議所の担当の方に話をすると、
「じゃ、つぎに行くときに、声掛けてあげる」
と、いい返事をいただけた。
さて。
実際に行く段になり、少々悩む。
「何を持っていこう・・・」
私の頭の中には、オギロパンで一番支持されているであろう「しゃりしゃりバターパン」が、すぐに浮かんだのであった。
(つづく)
9月28日に、広島の本通りにある「ひろしま夢ぷらざ」での販売を行なった。
これには、私の一つの意図があった。
「うちのパンって、よそでも売れるのかなぁ?美味しいって思ってもらえるのかなぁ?」
素朴な疑問である。
自分自身のパン(ジャスコ店で作っているパン)に関しては、相対的ではなく客観的に判断できるが、オギロパン(昔からあるパン)に関しては、あまりよく判断できない。私自身が、オギロパンで育っているため、この味がある意味当たり前で、それゆえ、客観的に判断する材料に恵まれていない。
たぶん、この悩みは、私自身の悩みなので、ほかの人から見るとおかしいのかもしれない。
ともかく、オギロパンでどこまで勝負できるか、知りたかったというのが、一番の動機になったのは確かである。
だからといって、いきなり出店するほど、私には勇気はない。
そこで気がついたのが「ひろしま夢ぷらざ」の存在だった。
広島の中心地である本通りに店を構えているうえに、三原商工会議所が年に1回、三原の物産をひっさげて遠征していることは知っていたので、それに便乗できないものかと考えた。リスクはかなり低くなるし、ある程度、私の疑問に対する答えにもなる。
まずは、その「ひろしま夢ぷらざ」に行ってみた。たしか、冬と春とか変わるぐらいの時期だった。
さすがに広島の本通り。平日というのに、人通りがかなり多い。
担当の方とも話をしてみると、
「だったら、三原の物産展の時に、一緒に来たらいい」
と、いうことだった。
三原に帰って商工会議所の担当の方に話をすると、
「じゃ、つぎに行くときに、声掛けてあげる」
と、いい返事をいただけた。
さて。
実際に行く段になり、少々悩む。
「何を持っていこう・・・」
私の頭の中には、オギロパンで一番支持されているであろう「しゃりしゃりバターパン」が、すぐに浮かんだのであった。
(つづく)