小早川隆景と三原城

数年前、とある人からこんな事を聞いた。

「三原は、小早川隆景をもっと大切にせにゃいけん。隆景公は偉大な人だったんじゃ」

そのときは、「そりゃ、そうだわ。」と軽く思っていたのだが、調べてゆけばゆくほど、小早川隆景の偉大さがわかってきた。こりゃ、すごい人だ。そんな人が、三原の街の土台を作っただなんて、素晴らしいことだ、と。

そんなわけで、小早川隆景のことを少し書いてみようと思う。

三原の人間なら誰でも知っている「小早川隆景」であるが、三原城に居た期間はどのくらいだと思うだろう?

三原城が築城されたのは1567年と言われているが、隆景が新高山城(本郷町)から三原城に本拠を移したのは1582年である。

隆景はその5年後(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐後に同行した後、九州の筑前・筑後・肥前の一部を与えられ、筑前名島城(ちなみに、九州の筑前名島城も三原城と同じく海城である)に本拠を置き、入封した。

朝鮮出兵にも参加し、武勇を馳せたらしい。

そして、1595年に家督を小早川秀秋(養子:秀吉の甥)に譲り、再び三原城にて隠居生活を送る。そんな隆景は1597年に亡くなる。

つまり、隆景は、1582年から1587年までと、1595年から1597年までの時期しか、三原城を本拠にしていなかったということである。思ったよりも短いものである。

足しても7年間。たった7年間である。
その間に、三原城築城を喜んで踊ったという「やっさ踊り」の話があり、神明さんにまつわる話もある。なんと三原にとって関係の濃い人物だったのだろうか。たった7年で現在の三原に伝わる2つの祭りに重要に関わっているとは。

ちなみに、三原が城下町として整備されたのは広島藩に福島氏が入封したころからという。その後、福島氏は広島城の無断改築のため、浅野氏が広島藩に入ることとなり、三原城はその広島藩の家老の城として3万石を与えられた。

三原の銘菓「三万石煎餅」は、そこに由来している。「名城焼き」は、三原城に由来している。

しかしまぁ、隆景という人は、なんとドラマティックな人生を送ったのだろう。
毛利家の三男として生まれ、竹原小早川家に養子となり、沼田小早川家を統合し、三原城を築城し、九州征伐し参加し約53万石の大名となり、秀秋に家督を譲り隠居し、三原城で没するとは。

「利家とまつ」という大河ドラマがあったが、我らが「小早川隆景公」だって、負けてはいない。側室をおかず、嫁さん一人を愛したそうだ(だから、秀秋・・・)。

ともかく、小早川隆景公については、もっと調べると面白そうなので、継続して掘り下げてみようと思う。

私のもうひとつの夢であった「歴史家になりたい」という夢は、郷土史によって叶えられるかもしれない。
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