妄想 「三原駅前市民広場問題検討会議」

※2025年に書かれたブログ・・・を想定しています。


 思い起こせば、2010年ごろまで、あの場所には「三原駅前市民広場」という広場があった。

 要はペアシティ東館を取り壊して作った、急場しのぎの広場であったのだが、三原市が「市役所を移転するぞ」といったものだから、市民から「それはどうなの?」と声が上がり、広場の活用について市民レベルでの検討会議ができた。

 この三原でそんな検討会議なんて、できるわけがないと思っていたのだが、意外や意外、三原を愛する人がやっぱりいるものである。

 その中で、たくさんいろんな案が浮かんでは消え、消えては浮かびしていった(実は、私もその会議に参加した一人・・・だったりする)。

 確かに、あの場所に市役所を設置するという案は、一番手っ取り早い方法と思われた。なにしろ、市の所有地であり、駅前で交通の便もよく、なにより行政が前向きであった。
 しかし、こんな声もあった。

「三原駅前といえば、三原の玄関先。そこに市役所があっても、何のメリットもない」
「中心市街地という観点から、もっと人の集まるような仕組みがあってもいいのでは?」
「もともと、あの場所は三原城なのだから、それを踏まえて考えたほうがいい」
「三原って、三原らしいこれっていう場所がないよね」
「市役所があってもいいけど、わざわざ建て替えるっていうのも、ね」

 とはいえ、決定打となるものはなかった。

 このまま、市役所の移転で決着しちゃうのかなぁ。市役所の建物に、にぎわい施設や三原城をイメージするデザインを取り込むのかな。とも思われた。

 何度か検討会議がぐるぐると同じような内容で進むうち、とある人が、突然怒りながらこんなことを言い出した。

「だいたい、三原市をイメージするものってなんなんよ!」
「たこ?筆景山?仏通寺?交通の便の良さ?」
「んなもんは、決定打にならん!」
「たこはよそでもうまい。多島美もええけど、よそにもある。古い寺なんか、どこでもある」
「交通の便が良くても、人が行き来せんと、意味がない」

「三原が三原である、ぐっとくるもんは、なんなんじゃ!」

 会議に居合わせた一同は、静まり返った。
 まさしく、正論である。言い返す言葉もない。
 そんな空気の中、一人がこう言いだした。

「あんた。そんなこと言って、三原でぐっとくるもんはなんじゃー思うとるんなら!(怒)」

 逆切れである。
 しかし、そのひとは、ぼそりぼそりと、こう言いだしたのであった。

「よう考えてみんさい。三原の街はどうしてできた?」
「小早川隆景が三原に浮城を築いたから、この地に三原ができたんじゃろ?」
「立派な城が明治になるまで、あったんよ。鉄道が通って、壊されたけど」
「新幹線ができて、余計その城も壊されたんじゃ」
「城が壊されるたびに、三原の魂がなくなっていったんじゃないんか?」
「あの広場だって、もとはといえば、三原城の本丸でー」
「三原の街を作った小早川隆景公は、いまの三原の姿をみて、どう思うかのー」

 一同は息をのんだ。確かにその通りである。
 三原の街をつくった小早川隆景は、今の三原をみて、なにを感じるだろう?

 すくなくとも、ほかの地方都市と変わらず、景気の流れに沿ったように静かになり、街としての意思も意識もなく、なんとなくまちづくりが行われ、、だんだん個性のない三原になっていった状況は、小早川隆景にとって、口惜しいに違いない。

 小早川隆景は、この三原の地に、天下に誇る海城としての名城である「三原城」を築き、三原の民を気遣いながらこの地を治めていた。春の訪れをしらせる「神明さん」で景気を判断していた隆景である。また、三原城の築城をいわって踊られたのが「やっさ踊り」である。三原を代表する2つの祭りに深くかかわっている人物は、小早川隆景なのだ。

「わしら、三原の人間として、大事なことをわすれて、駅前じゃー、一等地じゃー、中心市街地活性化じゃー、いうて、さわいどっただけだけかもしれん」

 静かになった会議室で、ひとりがつぶやいた。

「三原が三原らしいまちになる、いうことは、三原である唯一のことを大切にせんといけんのんじゃないか。」

 会議の流れが、徐々に動き出していった。

「じゃあ、何が大事なんかね・・・」

 ・・・

 この時点で、市役所の移転は消えていたのだった。

(つづく)


 って、このまま妄想をひろげてええんかいな。(汗)
 
Comments(5) | TrackBack(0) │   (18:22)